2019年3月19日火曜日

見沼田んぼにも春が近づいています。

見沼田んぼのヤブカンゾウも少しづつ芽吹いています。

2019年3月16日土曜日

河津桜を見てきました。

開花時間の長い河津桜も終りが近く、葉桜になりつつありました。
3月5日に、クラブツーリズムの日帰りバス旅行で河津桜を見に行きました。
さいたま新都心を8時に出発。外環、関越、圏央道、東名と移動。首都高速の渋滞を回避して、移動。おかげさまで渋滞もなく、沼津に到着。
伊豆フルーツパークで昼食と買い物。昼食後。向かいのビニールハウスでいちご狩り。
「ほのか」と「紅ほっぺ」とあったそうですが、いちごを早く食べなければと欲に目がくらみ、目先の「紅ほっぺ」だけ無心にいただきました。あとから、農園の人に「ほのか」という品種があったことを聞きましたが、後の祭り。それにしても、食べ放題と聞くと、もとをとらなければとつい思ってしまいますね。煩悩が現れますね。



そしていよいよ河津桜。約1時間で到着。
桜は見ごろが過ぎようとしていましたが、たくさんの観光客でした。
一本の桜の木からここまで育ててこられた地元の方々は素晴らしいですね。見事な町起こしです。




2019年3月4日月曜日

富高東京同窓会幹事会に出席しました。

3月2日、6月に開催する富高東京同窓会総会の準備のための幹事会に出席しました。
会議までに時間があり、天気も良かったので、関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂、江戸川公園に立ち寄りました。

東京カテドラル大聖堂

ルルドの泉

大聖堂の建築

前聖堂は第二次世界大戦で全焼しましたが、ドイツのケルン教区の支援とカトリック教会内外の多くの方の協力によって再建されました。丹下健三氏の設計により、昭和38年(1963年)に起工、昭和39年(1964年)12月8日落成、献堂式が行われました。
特徴的なカーブを描く八面のコンクリートの壁を垂直に近く立てた構造で、天井は大十字架をかたちづくっています。外装のステンレス張りの輝きは、社会、人々の心の暗闇を照らすキリストの光を思わせるものです。



 神田川上水取水口の石柱

井之頭池を起点とした神田上水は、途中補助水源として、善福寺池を水源とする善福寺川淀橋玉川上水の分水(神田上水助水堀)、更に妙正寺川を併せて小石川関口大洗堰に至る。
関口大洗堰は流れてきた水を左右に分脈し、左側を上水に使う水として水戸藩の江戸上屋敷(現在の小石川後楽園、〔文京区後楽1丁目〕)方面に流し、右側を余水として江戸川と呼ばれるようになった(かつての「平川」は関口から飯田橋まで江戸川、飯田橋から浅草橋までを神田川と改称した。1965年昭和40年)の河川法改正で江戸川の名称を廃し、神田川に統一にした。)。関口大洗堰が設置された年代はわかってはいない。『水戸紀年[10]によると水戸藩邸に上水が引かれるようになったのが1629年寛永6年)とあるから、それ以前に建設されたのではないかと思われる。の規模については『新編武蔵風土記稿[11]に紹介されている。

江戸初期の水道、神田上水と掛樋

家康が入城した時期の江戸は海辺の湿地帯でした。
このような土地では井戸を掘っても塩が混じった水しか出ず、生活用水に適しません。家康と江戸にとって、生活用水を確保することが急務でした。神田上水もこうした背景で開設されました。
神田上水開設の時期には二つの説があります。家康が関東に入国した天正十八年(1590年)の説、また、家光が将軍職であった寛永年間の説です。開設者についても家康の家臣大久保藤五郎、もしくは内田六次郎の2説があります。いずれにしても江戸初期からあった上水であることは確かなようです(伊藤好一著 江戸上水道の歴史)。
もっとも、初期の神田上水は本郷台地(神田山)脇を流れていた小石川から分水した「小石川上水」という上水だったようです。この頃江戸城のあたりまで日比谷入江が入り込んでいたため(海の痕跡が残る-日比谷公園)、河川からそのまま水を取ると海水交じりになって生活用水には適しません。そのため、わざわざ本郷台地脇で分水し小石川の水を神田地域へ流しました(肥留間博著 玉川上水)。のちに水源を井の頭池、善福寺池など拡大し、神田上水と呼ばれるようになりました。
水道橋の地名の由来となった掛樋も初期の頃からあったものではありません。二代目将軍秀忠の時代、1620年頃、平川の流路が変更され、神田川(仙台堀)が掘られる天下普請が行われます(御茶ノ水の地名の由来-作られた神田川)。神田川は本郷台地を東西に横切る形で掘られたため、神田方面に上水を通すためにはこれを渡る必要があります。このため神田川に水道管(木樋)が渡されました。この掛樋が作られたのは神田川の普請が完了した万治4年(1661年)以降であったようです(伊藤好一著 江戸上水道の歴史)。当初の掛樋は現在の水道橋の下を通り神田川を渡っていました。その後、下流に移り、冒頭写真の「神田上水掛樋跡」のあたりにかけられました。




 江戸川公園
関口台地の南斜面の神田川沿いに広がる東西に細長い公園です。台地の斜面に自生する雑木林と園路を主体とした公園でしたが、昭和59年(1984年)に神田川の拡幅工事に伴い改修されました。細長い公園なので園路を散策すると、様々な景色がパノラマのように展開します。川に沿ってソメイヨシノが続きます。途中で園路が二手に分かれたり、様々な重量感のある石が添えられた石の広場や、西洋風の山小屋を模した時計搭のある四阿(あづまや)、藤棚のあるテラスなどがあり、変化に富んだ景観となっています。テラスの先には石組みの池があり、神田上水取り入れ口に使用されていた大洗堰を復原しています。斜面地には浮き橋状の遊歩道があり、斜面の樹木をいためないようになっています。深い樹間をつづら折に登ると最上部につながり、早稲田方面を見渡せるようになっています。


中目黒駅近くの水餃子屋さん「東京台湾」でビール1本とランチ(ランチは1種類)をいただきました。